ムジェッロの片田舎バルビアーナとドン・ミラーニ

バルビアーナ

 

普段テレビを観る習慣がないので世間の状況に疎くならないか心配で、たまーにテレビのスイッチオン。
今日はたまたまこの間行ったばかりのバルビアーナというフィレンツェの北の小さな集落のニュースをやっていました。
これも縁だと、バルビアーナに実際に行ってきました。

バルビアーナ Barbiana

ニュースでは、小さな小さなこの集落に、年間?人(数字忘れました。でもかなりの数。)もの人々が訪れるので、公衆トイレを建設中。とのことでした。
そこにこれまた小さな教会がありますが、水道の契約がないんだそうです。

なんで、こんな辺鄙な小さな集落に人が押し寄せるかというと、イタリア人は誰でも知っているDon Lorenzo Milani ドン・ロレンツォ・ミラーニ神父(以下ドン・ミラー二)がその人生を捧げた場所だからです。

 

ドン・ミラー二 Don Milani

もともと裕福な家に生まれ教育もきちんと受けたロレンツォ・ミラーニ(ドン・ミラーニのドンは敬称です)ですが、その後聖職者の道を選びます。時は第二次世界大戦中。戦後は、労働者の搾取は子供のうちに受けるべき教育を受けられなかった事による無知から生じるとして、特に子供の教育に力を入れます。当時としてはとても革新的な考えの持ち主だったので、周りと軋轢が生じ、ここバルビアーナの教会に左遷されてしまいます。

ここバルビアーナは、現在でも道の一部はアスファルトで舗装もされていない所もあるほどなので、彼がここへ送られた1954年当時は外界とは隔絶されたような場所だったに違いありません。

農家がまばらにあるだけのようなこの土地では、子供たちはもちろん働き手であって、教育は満足には受けさせてはもらえてませんでした。そんな所に革新的な神父が赴任してきて、いきなり子供たち全員に教育を、と言ったところですぐには受け入れられるものではありませんでした。それを根気強く住人を一人一人説得して、小さな小さな学校を教会のわきつくりました。

この写真の白い建物がそれです。その後には鐘楼も見えています。

 

バルビアーナ

 

教会の周りは、今でも緑ばかり。山の中です。

ドン・ミラーニはここで教えながら、著書も残し、そして生前彼が望んたとおりに、この地に埋葬されました。

 

ドン・ミラーニの墓

 

教会から坂を下ってゆくとある小さな墓地です。
他の地元の人のお墓に並んで、「ロレンツォ・ミラーニ」の名前のあるお墓。花が絶える事がない事がうかがわれます。

 

教皇がやってるくる?!

ところで、ちょっと遠出して来たものの、到着した途端に土地の人に「今日は重要人物が来るから、教室と教会の見学はできません!」と言われてしまいました。「重要人物ってだれです?」と聞いても、「それは言えないのは分かってほしいわ。」との答えが返って来ました。

なので、ちょっと物足りない感じだったので、せっかく来たのだからと、墓地に続く道から分岐している山道に入ってみました。

 

そうしたら、
もんのすごい、大自然でした。

 

 

“ルチアーノの橋”という案内板があったので、行ってみる事にしました。

 

途中で、

 

 

牛がみんなでこっち向いてる!!

牛と一緒に記念写真を撮ってほしかった班長がちょっと近づいたら、「ぶるぅっ!」と、すごい音で鼻を鳴らされ、未遂に終わりました。あまりに貧弱な有刺鉄線3本は、牛さんが本気を出せば雑草と同じくらい役に立たないに違いありません。

 

ルチアーノ橋に近づいているのかいないのか、遠くからかすかに水の音が聞こえますが、

 

バルビアーナ 山道

 

いつまで続くのかが全く読めないこの道を普通の格好で雨の中を歩く気合いは持ち合わせていなかったので、戻りました。

 

戻る途中、

 

あの牛さんたちを囲っていた有刺鉄線が、木に食われていました。
自然には手足も出ません!と思うほどの、豊かな自然。

 

駐車場まで戻ったら、うちの車のすぐ後ろ、そこを塞がれると出れない!という位置に、カラビニエーリの大きな車がドンと停まっていました。
噂の、最重要人物のご到着直後でした。フィレンツェの大司教さんだったようです。そうそう、この方でした。→ Arcivescovo di Firenze
どうも、その最重要人物は、更なる最々重要人物を迎えるための下見をしていた模様です。その人物とは、教皇フランチェスコ一世。今年の6月20日にドン・ミラーニ没後50周年のタイミングでこの場所を訪れるそうです。

 

ところでご紹介が遅れましたが、これがバルビアーナの教会↓です。

 

 

地元の人の車が前に停まってます。一大イベント!といった感じで、少人数ながらもみなさんいそいそしていらっしゃいました。

見学はできないと言われてはいましたが、大司教さんの後からおとなしく入ったら、別に追い払われる事はなかったです。(写真撮影はしませんでした。)

 

 

と、なんだか落ち着いた訪問だったのですが、カラビニエーリの偉そうな駐車方法のおかげで、車を出すのに冷や汗をかくはめに。
駐車場と言うよりも、単なる段々畑みたいな舗装のされていない草地が大雨の直後だったので滑る滑る。横滑りするし、その先は柵もない崖だし。前輪が煙を出してキュルキュルー、ギュルギュルー。
こういう土地ではやっぱり四駆が必須ですね。

 

この後に行ったヴィッキオとジョットの家についてはこちら↓

ジョットの家?ジョットの生家?ヴィッキオのヴェスピニャーノ

 

 

・追記・

この場所に数ヶ月後に再訪することができました。

美食家の友人が、ヴィッキオに住んでる人に聞いたと言うラヴィオリの美味しいレストランに行こう!と企画したドライブ。なんと到着したら、前回たまたま立ち寄ったレバーペーストのクロスティーニやら生ハムやらの美味しい同じレストラン*!ラヴィオリも生パスタもちもち、ラグーソースも味わいがあってとっても美味しかったです。後からヴィッキオ在住のお友達が合流して、「この周辺でおすすめの場所ある?」と聞いたら、「バルビアーナ。」こんな短期間になかなか行かないような場所に再訪してしまいました。

重要人物の来るような特別の日ではなかったので、地元ボランティアの方が案内してくれました。ドン・ミラー二の事なら本当に何でも知っている人で、たくさんのエピソードを聞く事ができました。例えば、左遷先のバルビアーナに来て彼が最初にした事は、自分自身の墓を作る事。本当に何もない場所なのに、最初からそこに骨を埋める決意をしたんですね。子供たちを多く集めるのに成功した後は、年齢がバラバラな子を一人で教えるわけにはゆかず、子供たち自身に自分より小さい子を教えさせるシステムを作ったり、ドン・ミラーニ自身が知らない専門的な事も、なんと来訪者に教えてもらうようにして、実に沢山の幅広い教育を施していました。子供たちが労働者として搾取されるのは教育を与えられずに育って、無知なのを大人に利用されてしまうからだ、と。上に載せた”ルチアーノの橋”は、ルチアーノという遠くに住む少年が使っていた通学路にかかっているんです。あの長い長い、どこで終わるのかも分からなかった道を毎朝歩いて学校に登校していたルチアーノ。最初は橋はなくて、父親が渡した簡単な丸太しかありませんでした。それがある日、大雨で流されてしまいます。そこで学友たちは皆そろって行政まで出向いて「ルチアーノに橋を!!」と大合唱。そしてついに願いがかなって鉄とコンクリート製の橋がかかったのが、現在でもある”ルチアーノの橋”なんだそうです。

ここには書ききれない沢山のお話をしてくれました。バルビアーナに行くと、伝記や記録やら、5種類ほど書籍が購入できます。

 

*ヴィッキオの美味しいレストラン →La Casa del Prosciutto

 

 

 

・おまけ・

ドン・ミラーニのドキュメント。(伊語)