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象オベリスク/ソプラ・ミネルヴァ

投稿日: 更新日:2020-06-14
象 オベリスク ソプラ・ミネルヴァ ローマ

パンテオン裏のChiesa di Santa Maria sopra Minerva サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の前のこんなかわいいゾウのオベリスク。
このオベリスクの事が、先日ドーリア・パンフィーリ美術館で買ってきた本「INNOCENZO X PAMPHILJ – Arte e Potere a Roa nell’Età Barocca」に事細かに書いてありました。翻訳とは言えないほど簡単にご紹介します。  

 

像とオベリスクの関係

Cardinal Francesco Barberini 枢機卿フランチェスコ・バルベリーニが1658年に発案したオベリスク計画を任されたGian Lorenzo Berniniジャンロレンツォ・ベルニーニが実現に向けてデッサンやテラコッタの模型をするけれども、完成は1667年で弟子のErcole Ferrata エルコレ・フェッラータによるもの。
ここで興味深いのは、ゾウとオベリスクの象徴。象は賢い頭脳を持ったたくましい堅牢な人、オベリスクは叡智の象徴。その像の上にそのオベリスクなので、その意味は明らかです。この象徴の意味は、台座にも言葉で書いてあります。
この意味を枢機卿フランチェスコ・バルベリーニが知っていて注文したのかどうか、その手がかりは、 Hypnerotomachia Poliphiliヒュプネロトマキア・ポリフィリ)というFrancesco Colonna フランチェスコ・コロンナという人物が書き1499年にヴェネツィアで出版された不思議な物語にあります。その本の内容は、主人公ポリフィーロの夢の中の話ではあるけれども、大変教養のある人物が書いたものである事が窺い知れ、エジプトのヒエログリフなども引用されます。そして、象とオベリスクの象徴する意味がそこに記されています。この本をおそらく興味を持って読んでいただろうと推測されるのは、枢機卿フランチェスコ・バルベリーニが購入した地、パレストリーナの元の領主はこの本の著者であるフランチェスコ・コロンナであったので、本の存在を知っていたはずであり、また、枢機卿フランチェスコの仲間であるPompeo Colonna ポンペーオ・コロンナは数々のアカデミーのメンバーであり、作家・詩人。もう一人の仲間、Atanasio Kircher アタナージオ(苗字なんて発音するのか不明。キルチェル?)は特にエジプト考古学者として名高い人物。この二人の友人は当然のことながら、Hypnerotomachia Poliphiliを読んでいたはずなのです。彼らがあってからこその、この象とオベリスクという組み合わせ。
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この章を読んでいて不思議に思ったのが、なんでパンフィーリ家が主題の本なのにバルベリーニ家とコロンナ家がメインの作品を語る?という事でしたが、、よくよく考えると、どうも最初にちょろっとだけ記述があった、パンフィーリ家出身の法王インノチェンツォ10世がバルベリーニ家出身の前法王ウルバーノ8世の親戚(身内が法王の時代に勢力を拡大していた)を追い詰めて、フランチェスコ・パルベリーニはフランスに亡命しました、それから他の貴族の力を借りたりして法王をおびやかし、無事にローマに戻りました。っていう、そのくだりだけだったみたいです。

  

Hypnerotomachia Poliphili ヒュプネロトマキア・ポリフィリ

気になったので、現在販売されている本を買いました。
2冊組になっていて、左側の本は1499年出版時のをそのまま印刷してあります。
ただし、そのままだと読解困難なので、右側のが現代語訳と解説を付けた形になっている訳です。

Hypnerotomachia Poliphili (ヒュプネロトマキア・ポリフィリ)
2冊の表紙

 

像 オベリスク
象のオベリスクのページ
Hypnerotomachia Poliphili (ヒュプネロトマキア・ポリフィリ)1499年
1499年版の方
Hypnerotomachia Poliphili (ヒュプネロトマキア・ポリフィリ) 現代語訳
現代語訳版

上の写真のように、1499年版は文字の配列まで凝ってます。
現代語訳版の方にも二つ折りになった図が出ていたり、なかなか面白いです。

   

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
教会正面(オベリスクの前)
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 内部
教会主祭壇

 内部の主祭壇の右と左の側面に、それぞれPapa Leone X – Giovanni de’Medici レオ10世 / 俗名ジョヴァンニ・デ・メディチと、Papa Clemente VII – Giulio de’Medici クレメンテ7世 / ジューリオ・デ・メディチのお墓があります。

二人ともフィレンツェのメディチ家出身の法王。メディチのメンバーでフィレンツェのサン・ロレンツォ教会に埋葬されてない人たち組です。
他にそのメディチのメインのお墓に収まっていない人たちは、例えばLorenzo il Fatuo 愚かなロレンツォ。追放中にころっと溺死してしまったのでAbbazzia di Montecassinoモンテカッシーの大修道院に眠っています。他は、Bianca Cappello ビアンカ・カッペッロ、フランチェスコ1世の後妻で、まだまだ論議の続く毒殺なのかそうでないのかという死をポッジョ・ア・カイアーノの別荘で夫と迎えたあとに、夫の遺体のみフィレンツェに持ち帰られています。メディチの奥さんで、ここにいない人はあと数人います。それはまた別の話で。

べアート・アンジェリコの墓(フラ・アンジェリコ)
べアート・アンジェリコの墓

Beato Angelico ベアート・アンジェリコ(フラ・アンジェリコという記述もありますが、1982年に列福されたので、修道士フラ、から福者ベアート、になっています。)のお墓。

他には見所として、
ミネルヴァのキリストと呼ばれるミケランジェロの彫刻作品。
シエナの聖カテリーナのお墓、頭と指一本はシエナのサン・ドメニコ教会に運ばれ、現在でも同地に保存されていて見る事ができます。
右翼廊にあるカラーファ礼拝堂のフィリッピーノ・リッピの作品も最高。
ピエトロ・ベンボの墓もあります。

なんでここで取り上げないかって、そんなんもう有名なんだからいいじゃないですか。(?)


で、暗い影に隠れてよくわからない人たちがいたりします。

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 暗い
暗いな

Mino da Fiesole ミーノ・ダ・フィエーゾレによるFrancesco Tornabuoni フランチェスコ・トルナブオーニのお墓でした。左側廊一つ目の助祭壇にあったと思います。
どっちも親しみのある名前。なんで、この人がここに眠るのか、今度調べてみます。

・・・追記と訂正・・・上のフランチェスコ・トルナブオーニの墓だと思ったものは違いました。肉眼でも暗くて見えなかったのですが、こんな墓もあってこちらでした。↓

Fondazione Zeriのカタログのリンク

なにぶん資料がなくてこのフランチェスコがどういう人だったかなどもよく分からないのですが、この墓の制作年は1480年で、その年に亡くなったトルナブオーニ家のメンバーです。メディチ銀行のローマ支店の責任者であったジョヴァンニ・トルナブオーニの父親がフランチェスコですが、年代が違いすぎます。そしてジョヴァンニの子供にフランチェスコはいません。
ともあれ、ローマに墓という事は、ローマにおけるフィレンツェ人コミュニティーに属していたという事が考えられます。実際に1481年にパッツィ家の陰謀によるローマ教皇シスト4世との仲直りのお使いで、フィレンツェからシスティーナ礼拝堂に絵を描くための送られた4人の芸術家の受け入れを、このコミュニティーがしています。墓の上部右側にトルナブオーニ家の紋章、左側にフィレンツェのあやめの紋章がある事が分かります。トルナブオーニ家はフィレンツェでもブランドショップが立ち並ぶトルナブオーニ通りの名としても有名です。もともとはTornaquinciトルナクインチという貴族で途中で名前を変えています。メンバーの中で有名なのは、Lucrezia Tornabuoni ルクレツィア・トルナブオーニでしょうか。偉大なるロレンツォLorenzo il Magnifico de’Medici の母親でジョヴァンニ・トルナブオーニの妹(もしくは姉)です。
またこの墓に関して何か分かったら付け足します。