ローマのヴィッラ・メディチとフィレンツェの繋がり

ヴィッラ・メディチ

ローマのスペイン広場のちょっと奥に、ヴィッラ・メディチVilla Mediciっていうのがあります。
フランスアカデミーっていう美術教育機関がある場所です。選ばれた若いアーティストがここで研究発表などをしています。

で、ここは、メディチという名前のとおり、フィレンツェのメディチ家にゆかりの建物で、1576年、当時枢機卿だったフェルディナンド(後の大公)がローマにいる時に、これまたフィレンツェの彫刻建築家アンマンナーティが完成させました。

それから時を経て、メディチ家が断絶した後にトスカーナ大公になったピエトロ・レオポルドがとっても合理的な考え方の人だったので、経費だけかかる余計な資産になっていたこのヴィッラを売却、建物の中にあった美術品だけはごっそりとフィレンツェに送りました。
この美術品のコレクションは膨大だったもので、フィレンツェのあちこちに今でもヴィッラ・メディチから来た作品を見ることができます。

今回のブログ記事は、そのいくつかのご紹介。
だだし!このヴィッラ・メディチに行ったのが夏前だったので、現地で知ったことの詳細を結構忘れてしまっています。早い目に書いておくか、メモを取っておくんだったー!と、後悔してもどうしよもないので、とりあえず始めます。


 

まず上の写真、ヴィッラ・メディチの外観ではなく中庭側です。外観は割とすっきりしちゃってるので、こちらの方が写真でよく紹介されます。
壁には古代ローマ時代のレリーフなんかがはめ込まれていて、あれがどこから、これがあっちから、なんて色々寄せ集めのモザイク。さすがに壁に埋め込まれたレリーフまでは剥がしてフィレンツェに持ってこれなかったし、ナポレオンが来た時も略奪できませんでした。美しいです。

真ん中あたりに近づくと、こんな感じ。

ヴィッラ・メディチ

 

セルリアーナっていう形のアーチなんですけど、その下にライオンさんいますよね。写真では隠れている右側にも一頭いまして、ワンセットで狛犬的な配置です。
そいつのオリジナルは今フィレンツェのランツィのロッジャ(シニョリーア広場)におります。右側ライオンはローマ時代のもので、左側はフラミーニオ・ヴァッカっていう1500年代のローマの彫刻家による作品っていうのは、ここローマで注文された作品だったからです。

で、階段の前のつんのめってるように見えなくもないブロンズ彫刻はジャンボローニャのもので、現在オリジナルははバルジェッロ美術館に。↓

メリクリウス ジャンボローニャ

『メルクリウス』。
もともとはボローニャ大学の中庭用で、あーだこーだ云々経緯がありますが、ともあれ人気の彫刻作品なので色々ヴァージョンがあります。

 

 

続いて、ヴィッラ・メディチにあるオベリスク。一番上の写真のもっと手前、庭園の中にあります。

これは樹脂と石を混ぜて作ってある精巧なコピーです。(このコピーを作った作家の名前と制作年を失念!)

ヴィッラ・メディチ オベリスク

 

オリジナルは、現在ボーボリ庭園に。↓

 

ボーボリ庭園 オベリスク

 

フィレンツェは歴史のある街ですが、なんとこのオベリスクが一番古いモニュメントです。エジプトのラムセス2世の時代ものなので、当然と言えばそうなんですが、古さで言うと他のどんな有名な作品にもかなわないっていうのが、しみじみ(?)しますね。

 

 

オベリスクのさらに後ろには、彫刻が並んでいます。

ヴィッラ・メディチ

 

左右中央に3体、白い台座に乗っているのが見えます。

真ん中にいる奴のアップ↓

ヴィッラ・メディチ 蛮族

 

こいつのオリジナルは、ボーボリ庭園へ。↓

 

蛮族 ボーボリ庭園

台座もしっかりとコピーされているのが確認できます。

ヴィッラ・メディチで一番右の配置の彫刻は、ボーボリ庭園でも右隣に配置。↓

 

蛮族 ボーボリ庭園

 

場所はボーボリ庭園出口近く、ブオンタレンティのグロッタ↓の近く。グロッタは目立ちますが、彫刻はかなり無視される目立たない存在です。

ブオンタレンティのグロッタ

 

 

で、最後の一体は、パラティーナ美術館のこの写真の左にあります。(なんと彫刻が写っている写真を持っていませんでした!)

パラティーナ美術館 カスタニョーリの間

写真はなくとも、とにかくあります。私のヴィジュアル記憶を信用してください。(資料は持っていまして、『トライヤヌス帝時代の彫刻、蛮族の捕虜。フェルディナンド枢機卿が購入、1785年フィレンツェへ』とあります。)
それぞれ彫刻作品をよく見ると、それがローマ人の服装ではなく蛮族のものだと分かります。

 

 

こっちはヴィッラ・メディチの庭の奥。

二オベ ヴィッラ・メディチ

ニオベの像が並んでいます。
ウフィツィ美術館のニオベの間にあるニオベとその子供達の像。
(ニオベが子沢山なのを自慢してレトの怒りを買い、レトは子供であるアルテミスとアポロを送り込んでニオベの子供達を殺させた、という神話の 1シーン。)

ただし、フェルディナンドの時代はこの場所ではなく、現在再現されているのもの1800年代の再構成。
でも、この配置はなかなかいい感じですね。
芝生の手入れもよかったです、ふっさふさ、もこもこ。サンダルを履いていたおばちゃん、思わず裸足。私も紐履でなければ靴を脱いでましたよー。

 

 

庭園内にはフェルディナンドが造らせたストゥディオーロと呼ばれる書斎があり、その天井画が素晴らしい↓

ヴィッラ・メディチ フレスコ画

 

部分的に失われて白く抜けている所もありますが、描かれている動物や植物がとっても生き生き描かれています。ヤーコポ・ズッキの作品。ヴェッキオ宮殿のストゥディオーロの制作にも参加している人です。
動物がめちゃくちゃかわいいですー!
この奥にはグロテスク様式の天井画があり、そちらではヴィッラ・メディチの改築前の姿、天井画が描かれた当時の姿、実現はしなかった建物正面の階段を含む完成予想図もあります。

 

 

同じ画家、ヤーコポ・ズッキはヴィッラ・メディチ内部の部屋の天井画も手がけました。そのうちの一つの部屋の天井画は、現在は彼の作品ではなく、現代アーティストのクラウディオ・パルミッジャーニの作品です。

ヴィッラ・メディチ クラウディオ・パルミッジャーニ

写真を見ても古い作品ではないと一目瞭然の、灰色の部分がそれです。
この部屋はStanza dei amori 愛の部屋といい、元々情愛のシーンなどが描かれていました。1700年になってフェルディナンドのひ孫であるコジモ3世に、ふさわしくない絵画であるとして燃やされてしまいました。それ以来ここは絵がないままでした。
そこに2015年になってから加えられたのが、この作品。
制作方法は、まず死んでしまっている蝶々を集めることから始めます。
その蝶々をキャンバスに貼り付け、火を使って軽く炙ります。そうすると、キャンバスに煤が付いて、白く煤のない跡を残して蝶々は燃え尽きます。そしてできるのがこの画面。
これは、短い命やひらひらと飛び去ってしまう儚い命の蝶々が、コジモ3世により燃やされてしまった絵画のイメージに重ね合わされます。

 

続く他の部屋の天井画は無事に現在でもズッキのものが残っています。
ここで、案内の方に聞いた話があります。
現在でも残る方の天井画をよく見ると、枢機卿であり家督を継ぐはずのないフェルディナンドが、自分自身を神話のストーリーになぞらえて、なにやら統治をしているシーンのようにも読めてきます。
その絵が描かれたのは、フェルディナンドの兄フランチェスコが無くなる2年も前の事。
フランチェスコは、今でも毒殺なのかマラリアによる死なのかが議論される死を遂げています。政治に興味のなかったフランチェスコを殺害して、フェルディナンド自らが大公になった、という仮説が今でも根強く信じられています。
もしかしたら、この絵が描かれた時点ですでにフェルディナンドはフランチェスコ殺害を考えていたのかもしれない…というストーリーもあり得る訳です。
興味深いですね。
ただし、フランチェスコの遺体の検査からはまだ病死と毒殺、どちらかの決着はついていません。

 

 

最後に、公開されている一番奥の部屋の一部を。

ヴィッラ・メディチ バルテュス

ここは、フランス人画家バルテュス自ら壁に色を塗った部屋です。
(バルテュスは日本でも人気の画家で、奥さんが日本人というのでも知られていますね。)
キャンバス画でもよく使われた、下地を何層か塗り重ねる方法がここにも見られます。実験のような感じで塗ったのではないか、との事です。
家具もバルテュスチョイス。

 

 

バルテュスは1961〜1977年までフランスアカデミーの学長だったので、レストランバールColbertの建物と壁の彩色テクニックを担当、テーブルと椅子はその後の学長リチャード・ベドゥッツィがデザインしています。
そんな素敵なレストランはこちら。→ Colbert
見学の後にコーヒーを飲みにでも行こうと思っていたら、見学に満足してすっかり忘れてしまいました。
別にヴィッラ・メディチの中に入らなくても、レストランには入れます。良さそうですよね。
カフェテリアとしても開いているので、お茶だけでもok。

 

では、また。